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コーチと選手では無くて、師匠と弟子の関係を期待している・・・

選手にとって、コーチの存在はどれ位重要なのでしょうか。「今更何を言っているの!?」と怒られそうですが、最近特にこの疑問が私のなかでは大きいくなっています。選手が(ジュニアの場合は保護者)コーチにテニスの技術的な指導を依頼し、その見返りに金銭を支払う。選手がコーチと相性が合わなければ、その指導依頼を打切り、別のコーチへ依頼する・・・テニス界では当たり前のようにこうした日常があちらこちらで経過する・・・

娘のコーチには、常に最低でも3年間(できれば5年間)、指導を継続して頂きたいことを説明し、更には「勝つこと」だけを目的にしないようにレッスンの担当を依頼します。もっと次元の違う「何か」をコーチに求めているし、「勝つこと」は選手自身の責任だと考えていますから。必要であれば、ボールを打つだけではなく、フットワークだけの練習やミーティングだけの日があっても良い・・・しかし、何回も何回もこうした私の考えは否定されてきました。あるジュニアの保護者は、コーチに「勝てるようになること」を要求するのは当たり前だし、短期間でのレッスンで「勝てるように」ならなければコーチを変えるのは当たり前、との指摘もされたりして・・・しかし、違うんだよな、私が考えていることは。

こうした自分に対する疑問を明確にしてくれるのが内田樹氏なんです。まずは、「内田樹の研究室::ビジネスマンに大学は経営できるのか?」を引用しておきましょう。

知識や技術の伝授という外形的な関係を経由して、「それとは違うこと」を学ぶのが教育である。知識や技術は商品化できる。単位も学位も商品化できる。けれども、「それとは違うこと」は商品化できない。

それは師弟の対面的な関係の中で一回的に生起し、師弟二人のほかに誰もが経験することのできない唯一無二の「出来事」だからである。誰にとってもその有用性や価値がわかっているものだけが「商品」になる。

一方、弟子はその師から「私以外の誰にもその有用性や価値が理解されないもの」を学ぶ。だから、師弟関係で授受されるものは原理的に商品にならない。

正に、私が望んでいること!これまで説明できなかった「選手とコーチの関係」に求めているもの・・・上記では、選手は弟子に相当するし、コーチは師匠に該当する。つまり、私が探しているのは、「選手とコーチの関係」ではなく、「師弟関係」なんだと気が付かされます。

選手は、レッスンの中で、当然テニスの技術や知識を吸収するのですが、そうした時間の流れの中で、「それとは違うこと」に出会う・・・それが何であっても良い。というよりは、選手とコーチ以外には理解できないことを吸収し、それが選手にとってかけがえのないものになるのだろうと考えている私が存在するわけです。そうした関係は、数か月といった短期間では得ることができないはず・・・もっともっと長い時間を掛けて吸収されていくものだろうと感じているわけです。

内田樹氏がテニス界を救う?

東京ファイティングキッズ・リターン東京ファイティングキッズ・リターンサポート内田樹、平川克美共著「東京ファイティングキッズ・リターン 悪い兄たちが帰ってきた」(文春文庫:東京ファイティングキッズ・リターンサポートを読了。以前、本ブログの投稿記事である「「俺流!テニス論」の由来」でも記述しましたが、内田樹[1]氏は、テニス論を公開する決心させてくれた方です(と言ってもお会いしたことはありません・・・)。ただ、間違いなくあらゆる分野において、影響がある方です。

一方、平川克美[2]氏は、コンサルタントとしてご活躍されている知る人ぞ知る!?有名人です。私も同業(コンサルタント)なのですが、通常は同業者に対しては、ライバル心が芽生えるのですが、平川氏には、なぜか「そうなんだよな~」とか「やっぱりね・・・凄いね!」と感じられる数少ないコンサルタントです。

そうした御二方は、学生時代からの友人で、そうしたお二方の往復書簡(メールでのやり取り)を総括した内容になっています。議論あり、意見あり、冗談あり、と言った内容ですが、その何気ないやり取りの中に、それこそ一般人では気が付かないような内容が含まれています。

私個人として、内田樹氏の書籍の引用をこれからも多用すると思います。本書でいくと、「共同体」に関する部分や「言論の自由」に関することなどは、テニス界にも活用できるし、その他の書籍でも参考になる・・・

ちょっと極端なことを主張すると、「内田樹氏がテニス界を救う」とまで言えるような内容が多々あります。世界ばかりに視野が向いているテニス界に対して、日本の環境で成長し、日本人としてどうやって海外と戦っていくのかを示唆してくれていますから。

脚注:(楽天ブックスの解説より)
[1] 内田樹(ウチダタツル)
1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒。東京都立大学大学院博士課程中退。現在神戸女学院大学文学部教授。専門はフランス現代思想、映画論、武道論。「私家版・ユダヤ文化論」で第6回小林秀雄賞を受賞。

[2] 平川克美(ヒラカワカツミ)
1950年東京生まれ。早稲田大学理工学部機械工学科卒。77年に渋谷道玄坂にて翻訳会社を設立。99年、アメリカ・サンノゼ市にビジネスサポートを主業務とするBusinessCafe,Inc.を設立。01年にリナックスカフェを設立。その後数社の経営に携わる。06年に声と語りのダウンロードサイト「ラジオデイズ」を企画設立し、取締役兼プロデューサーとなる。

「俺流!テニス論」の由来

街場のアメリカ論街場のアメリカ論サポート内田樹著「街場のアメリカ論」(文春文庫:2010年05月)街場のアメリカ論サポート2を読了。文庫本が出版されたので購入しましたが、以前、単行本が出版されたときに購入して読了していますから、実質2度目の読了ということになります。著者の内田樹氏は、現在、私が最も注目している(というより、影響を受けているといった方が正しいでしょうね!)著名人です。

実は・・・誰も気にしていないとは思いますが、本サイトのブログタイトル「俺流!テニス論」は、以前この本の「まえがき」に感化されたのがきっかけで、タイトルをぱくった経緯があります。だから、ちょっと似ていますよね、「俺流!テニス論」と「街場のアメリカ論」とが。最初は、「街場のテニス論」にしようかな、と考えましたが、それでは芸が無さ過ぎるので、「俺流」とちょっと強い響きにして・・・

これだ、これしかない!と感じた内田氏の「まえがき」は以下の通りです。

私はもともと仏文学者であって(今ではその名乗りもかなり怪しげですが)、アメリカ史にもアメリカ政治にもアメリカ文化にもまったくの門外漢である。非専門家であるがゆえに、どのような法外な仮説を立てて検証しようとも、誰からも「学者としていかがなものか」という隠微(いんび)な(あるいは明確な)圧力をかけられる心配がない(そのような禁制の届かない存在を「素人」というのである)。この立場はアメリカを論じる場合には、単に「気楽」というのを超えて、積極的に有利な立ち位置ではないかと思い至ったのである。(p.17)

更に、「まえがき」には、以下のような文節もあります。

私は本書の中でアメリカの政治、アメリカの文化、アメリカの社会構造を辛辣(しんらつ)に批判するけれども、それは「こんなことを言ってもアメリカ人は歯牙(しが)にもかけないだろう」という「弱者ゆえの気楽さ」がどこかにあることで成立する種類の辛辣さである。(p.28)

上記を自分勝手に「素人だからこそ、積極的にあるテーマを語ることができる場合があり、そうした有利な立場を積極的に利用せよ」と解釈したわけです。極端な話、「素人」ですから、強烈な内容を公開し、それが間違っていたとしても、許されそうだな、と思ったわけです。

内田樹氏のプロフェッショナル論

昨晩、「テニスナビ」を主宰する吉川敦文氏と夕食となりました。当然ですが、話は「テニス談義」で、「どうやって、今以上に日本のテニス界を活性化させるか」といったことで盛り上がりました。

いろいろな話をしましたが、私の独自の考え方として、「プロ」と「アマチュア」の選手を明確に区別できるようにする、というのがありますが昨晩もこの話を掲げましたが・・・そして、帰宅後、思い出した内田樹氏が語るプロフェッショナル論・・・「内田樹の研究室::新学期がそろそろ始まる 」に記述されているので引用しておこきましょう。下記にあるレベルに到達したテニスプレーヤを見ることができるでしょうか・・・

お題はイチロー。
先日、9年連続200本安打の記録を立てた偉大なベースボールプレイヤーであるが、記録に言及されることをあまり喜ばないのはどういうわけか。それは彼の卓越したパフォーマンスを数値的にしか表示しようとしない日本のスポーツメディアの能力の低さにうんざりしているからではないかという話をする。

アスリートのパフォーマンスを数値でしか語れないというのは、現代日本を覆い尽くしている「幼児化」の端的な徴候である。スポーツメディアが書くのは「数字」と「どろどろ人間模様」だけである。アスリートについて書かれていることは、記録や順位や回数について、ローカルな人間関係についてか、ほとんどそのどちらかである。

ベースボールプレイヤーについて書くときに、打率や打点や本塁打数や出塁率やにしか言及できないというのは、喩えて言えば、バレーダンサーのパフォーマンスについて論じるときに、ピルエットの回数とかジュテの高さとかリフトしたバレリーナの体重だけを書き、「舞踊そのもの」については何も書かないようなものである。

野球もまた身体的パフォーマンスであり、それが与える喜びはダンスを見る場合と変わらない。それは卓越した身体能力をもった人間に「共感する」ことがもたらす快感である。

長嶋茂雄という選手はもう記録においてはほとんどすべてを塗り替えられてしまったけれど、彼がプレイするときに観客に与えた快感に匹敵するものを提供しえたプレイヤーはその後も存在しない。

長嶋茂雄はただ「守備しているときに来たボールは捕って投げる。攻撃しているときに来たボールはバットで打ち返す」ということだけに全身全霊をあげて打ち込んだプレイヤーである。長嶋のプレイを見ているときに、私たちは彼の身体に想像的に嵌入することを通じて「野球そのもの」に触れることができた。その意味で長嶋は一種の「巫者」であったと思う。

長嶋がそうであったように、卓越したパフォーマーに私たちが敬意を払うのは、その高度な能力を鑑賞することを娯楽として享受できるからではない。そうではなくて、私たちの日常的な感覚では決して到達できない境位に想像的に私たちを拉致し去る「involveする力」に驚嘆するからである。

刈部さんとのインタビューではイチローと井上雄彦さんの「相貌上の相似」がひとつのトピックになった。ふたりとも若いときは、「ふつうの青年」だったが、今やまるで禅僧のような、武道家のような透き通った面立ちになっている。それは「遠くを見ている人」に固有のおもざしである。ひとりは野球という「興行」をつうじて、ひとりはマンガという「娯楽」をつうじて、ある境界線を突き抜けてしまった。

あらゆる職業には「これくらいでよかんべ」というラインがある。99%の人間は、そのラインをみつけると、そこに居着く。1%(もっと少ないかも知れない)の人だけが、それを超える。「そこまで行くことなんか誰も君に要求していない。いまのままで十分じゃないか。これ以上自分に負荷をかける必要はないだろう」という制止の声を振り切って、歩み続ける。歩み続けることを止められないその人たちをみていると、人間はどのような職業の、どのような知識や技能を通じても、「行けるところまで行こう」とすると、「向こう側」に突き抜けてしまうのだなということがわかる。そして、私たちは凡庸な人間には決して達することが出来ない境位に私たちを導いてくれた人々に対して敬意を払うことを禁じ得ないのである。