「型」を理解する!歴史・時代小説は、テニス教本になる・・・


かくれさと苦界行かくれさと苦界行1最近の歴史・時代小説への執着は、自分でもちょっと驚いています。あれだけ、歴史が嫌いだった私が、どうすればここまではまるのだろうと、自問自答しています。

そうした中、隆慶一郎氏の時代小説は、もう留まらないといった感触で、今回も隆慶一郎著「かくれさと苦界行改版」(新潮文庫:2007年12月)かくれさと苦界行2を一気に読了。夢中で読み進んだ、という感じです。

隆氏に限らず、歴史・時代小説には、当然ですが「決闘」シーンが登場するのですが、そうした決闘シーンでの剣士達の情景は、正に昔の真剣勝負、つまり生きるか死ぬかの場面を詳細に表現しています。「殺気を感じ・・・」、「予感があり・・・」、「相手のその動きから・・・」等々、何気ない描写にテニスでも参考になりそうなシーンが多々ある、と感じています。

上記の「かくれさと苦界行」には、決闘シーンに関連して、以下のような記述があります。正に、テニスに通ずる内容と信じています。

すべての剣の技術は自得するしかない。師によって教えられるのは型にすぎず、それを己のものにするのは各人の天性と果てしない研鑽によるしかない。その技術が己の第二の本能と化するほど鍛え込んで、はじめてその技法は力を持つ。

(中略)

そもそも完成された剣の型などあるわけがないのである。それは刻々と変化し、日々に新たでなければならない。それでなくては、それは単なる死んだ型に過ぎまい。(p.422 – 423)

内田樹氏は以前、その著書で日本の武道がもっと失ったものの一つに、「型稽古」をあげていましたが、上記は、その「型」に関する記述です。上記の文章をテニスに置き換えると、まさにテニスの練習そのものに変化します。やってみましょうね!

すべてのテニスの技術は自得するしかない。コーチによって教えられるのは型にすぎず、それを己のものにするのは各人の天性と果てしない研鑽(けんさん)によるしかない。その技術が己の第二の本能と化するほど鍛え込んで、はじめてその技法は力を持つ。

そもそも完成されたテニスの型などあるわけがないのである。それは刻々と変化し、日々に新たでなければならない。それでなくては、それは単なる死んだ型に過ぎまい。

どうですか?「剣」という言葉を「テニス」へ、「師」という言葉を「コーチ」に置き換えただけです。選手へのメッセージとして、まったく違和感がない文章になると感じるのは私だけでしょうか。もうこうなると、歴史・時代小説なんて、テニスの教本になると思いませんか?

コーチは、「型」を選手に伝授する(ただし、その型は、日々新しく生まれ変わっている必要があるのですが・・・)。選手は、その「型」を第二の本能と化させるために研鑽(努力してものにすること)すること、と主張されています。もうやめられませんね、歴史・時代小説!

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